「普賢様、何か気にかかることでも?」
高蘭英は尋ねました。
「いいえ、何にもないわよ。どうしてそんなことを言うの?」
「だって、さっきからため息をつかれていらっしゃいますよ」
そうなのです。王妃のため息は朝からこれで何回目か。
王妃に心酔している高蘭英としては、気になります。
王妃が口をきくようになってしばらくたっておりました。王妃が口をききはじめた当初、後宮に仕える女たちの間には、緊張がありました。
王妃が口をきかなかった間はある意味楽でした。王の機嫌を損ねぬよう丁寧に接していればいいだけでしたから。しかし、王妃が口をきき始めたとなると、事情は違ってまいります。王妃の言葉一つで、彼女らの境遇は大きく変わってしまうのです。
王妃は、この後宮でただ一人の妃であると同時に、王の寵愛を一身に受ける方。もし、王妃が王に讒訴でもすれば、一族郎等、皆斬首ということすら容易なのです。
しかし、それは杞憂でした。
王妃は、気性は穏やかで優しく、高位の方にありがちな、気まぐれや癇癪も無く、仕える者たちには、公平で、ねぎらいといたわりがありました。
後宮に仕える女たちの多くは、王が王妃のためにと選んだ者たちで、元々、王への忠誠の篤い者たちでしたが、今では、王妃本人に、忠義を尽くすようになっておりました。
実際のところ、これ以上の職場は中々望みようが無いと、彼女らは思っていました。王は王妃お一人に夢中で、他の女の影も無く、後宮にありがちな、女主人同士の鞘当ても無く、平和そのものでした。
しかし、何故か王妃は、ため息をついておられます。
これが先日までの王の不在の間のことであれば、わかります。王は先頃、視察に帝国の端まで行かれて、約三ヶ月不在でした。
その間も毎日、王妃への手紙を送っており、それは優しい気遣いに満ちたもので、また地方の珍しい風習などにも触れられ、王妃が差し障りのないところを話してくれるのを、後宮の女たちは楽しんでおりました。
その王が無事に戻られて、王妃の憂い顔も終わりと思ったのに。どうした事でしょう。
王との間に何かあったのでしょうか。王の夜の訪れはこれまでと変わらず毎夜で、お二人の御子である王子も健やかで、王妃の憂い顔の原因が、高蘭英には全く思い当たる事がありません。
朝から何度目かのため息に、ついに勇気を出して、どうなさったのか聞いてみましたが、なんでもないわよ、とはぐらかされてしまいました。
王妃は自分の言動の与える影響の大きさを、よくわかっておいでで、軽はずみなことは仰いません。ため息も、よく観察すると、高蘭英と二人きりの時のみ漏らされているようです。
信頼されていると感じて嬉しくありましたが、自分の立場では、相談してまではいただけず、歯がゆくもありました。そして、王に注進すべきか否か、考えあぐねておりました。王は王妃を寵愛しておられます。王に注進すれば、たちどころに解決するはずと思いましたが、ご夫婦の事に口を挟んで良いものやら、見極めの難しいところです。
一方、王妃は、いけない、いけない、と思っておられました。ため息が漏れていたなんて、と。王族の言動は、常に見られているもの。ため息一つがどれほどの臆測を呼ぶことか。
王妃の憂いの元は、もちろん王様です。
視察から帰ってから、なんだか様子がおかしいのです。視察に行く前は、夜の営みで、一晩に二度三度求められる夜も少なくなかったのですが、帰ってからは、一度きりの夜が続き、遂には昨晩は、床に入ってらっしゃるや
「寝る」
と一声いうなり、王妃に背を向けて寝ておしまいになりました。
最初はお疲れなんだろうと、思っておられましたが、ここまでくると、そうばかりでないような気がしてまいります。
視察に行く前も、夜のことをしない晩はごさいましたが、そんな時でも、王は色々お話ししてくださり、その話題は、たわいもない笑い話から、表向きの政治まで、多岐にわたりました。
視察の段取りが組まれた時などは
「そなたも連れて行きたいのう。じゃがのう」
「わかっておりますわ。私が行けば、侍女たちも連れて行かねばなりません。行軍が遅れますでしょう。」
「申す通りじゃ。今回は帝国の端まで行って来る。ただでさえ日数がかかる」
「国が落ち着いているとはいえ、陛下があまり長く王都を離れるのは、よくありません」
「うむ。最初は、領主を呼びつけてやろうかと思うたのじゃ。行くところはのう、わしの祖父の代に我が国に編入された土地での。今の領主が若かったころ、我が国に恭順の意を示しての、領主ごと召し抱えたのじゃ。ほれ、ここじゃ」
寝床に広げた地図で指し示します。
「あら、かなり大きな領土ですね」
「そうなのじゃ。しかも肥沃な土地での。何故、大人しく我が国に下ったかわからぬ、と父上は首を捻っておられたものよ」
「それから今まで何の問題もなかったのですか?」
「それが、全く問題無しでの。年貢もきっちり納めてくるし、こちらから送り込んだ相談役に逆らうでもなく、かといって、王都の中枢に食い込んで来るでもない。不思議な男での。王都に出てきた時、何度か謁見したが、どうにも捉えどころがなくての」
「陛下がそんなことをおっしゃるなんて、珍しいですね。それで、何故、この度は陛下が視察に、という話になったのでございますか?」
「領主もよい年じゃ。そろそろ代替わりも近かろうと思うのじゃが、これが次の領主がはっきりせぬ」
「息子がおりませんのですか?」
「息子はおる。というか、おりすぎる。娘もじゃ。何しろ国一番の子沢山と有名な男での。子供は百人おるという話で、しかも全員、母親が違うという噂じゃ。」
「百人……それは凄いですね」
「噂じゃからの、話半分にしても凄いがの。まぁ、わしのご先祖にも子沢山はおるので、他人の家の事は言えんがの。だが」
ここで王は一呼吸をいて
「だが、わしはお主がおればよい。お主一人がおればよい」
そういうと、王妃の肩をぎゅっと抱きしめました。王妃は嬉しそうに微笑むと、肩にかけられた王の手に、ご自分の手を重ねて握り返されました。
「それでの、その沢山いる息子のうち、どれが跡取りかはっきりせぬ。領主が都に来る時、息子も連れて来るのじゃが、その息子が毎回違う。わしが会ったは、三人だけだが、どれも凡庸での。国境沿いの広大な領土を任せる器ではない。領地に隠し玉を持っとるのかと、思うたが、送り込んでいる相談役たちからの報告では、そうでもないらしい。」
「凡庸でもいいのではないですか? そのほうが相談役たちの言う事に大人しく従うのでは?」
「その通りなのじゃが、凡庸の中でもだれを選ぶかじゃ。年長のものとするか、少しでもマシなものにするのか、母方の血筋で決めるか。一つ間違えれば内乱になりかねん。あんな国境で内乱になれば、隣国に攻め込まれよう。とにかく、領主に、趙公明に、跡継ぎを決めるように促す。できればこちらのいうことを大人しく聞く人物をだ。しかし、もしこのまま、趙公明が死ぬような事があらば、わしが決めねばならん」
「では、どなたを選ぶか、見極めに行くということですね。向こうに行けば、息子たち全員と会えますものね。優劣がはっきりしますし、こちらのいうことを聞くような方かわかりますもの」
「そういうことじゃ」
「でも、それだけではないのでしょう」
「わかるか」
「どなたも領主に値しないと判断なさったら、王都から将軍の誰かをお遣わしになるおつもりでは? その時は、軍も駐留させるおつもりで、そのための進軍経路を見極めるおつもりではありませんか?」
「流石そなたは聡いの。何処に軍を配置するかは、自分の目で確かめておくのが、一番じゃからのう。とにかくこの一件、始末を誤れば、国が揺らぐ。こんな事は、お主にしか言えぬが、我が帝国は正直、大きくなりすぎじゃ。一つ内乱を許せば、辺境のあちこちで反乱がおきかねん」
「ご心労、御察し申し上げます」
そう言いながら王妃は、王を抱きしめました。
「うむ、さ、表のことは、ここまでじゃ」
そうおっしゃると王は、寝台の上にあった地図を蹴り飛ばすと、王妃を寝台に横たえ、口付けながら、夜着をまくって王妃の肌を探り始めました。
とまあ、こんな調子だったのですが、視察から帰ってきてから様子が変です。夜の事もあっさり目、しかも、語らいらしい語らいがありません。
振り返ってみると、届けられた手紙も途中からなんだかおかしかったように思われます。手紙は、ずっと毎日書かれていて、最初は
「そなたも連れて来たかった」
とか
「そなたに会いたい」
など穏便なものだったのですが、そのうち
「そなたの夜露を味わいたい」
「そなたの真珠に触れたい」
など、際どい表現になり、趙公明の領地に近づく頃には
「そなたの女陰に入りたい」
などとここに書くのも憚られるほどの直接的なものとなってまいりました。
王妃は仕える女たちに、手紙の中の差し障りのない地方の風物の様子などを、読んであげていましたが、次第に読み上げても構わない部分が少なくなっていく始末でした。
が、趙公明に明日会うという、手紙から数日便りが途絶え、心配していると、また便りが再開されました。帰途についたことを報告しておいででしたが、それまでの直接的な表現は、影を潜め、早く会いたい、急いで帰るなど、穏やかなものに戻っていました。
趙公明との会見は、無事終わったようで、心の重荷が取れて、手紙の調子が戻ったのかと思っておりましたが、違っていたのかもしれません。
考えれば考えるほど、不安が募ってきます。
今宵こそは、王ときちんとお話せねば、と思っておいででした。
が
がしかし、なんとその夜、王はおいでになりませんでした。