研修医として、二年その病院で勤め上げ、さて、その後どうするとなって、僕はその病院で引き続き勤めることにした。
望ちゃんがあきらめてくれたなら、別に外国に行く必要は無い。両親を呼び寄せるにしても日本の方がいいだろう。
さて、困ったのは、何科を専攻するかということだ。だいたいの医学生は卒業の時点で、ある程度、何科に行きたいか目標を持っている。僕は、それが全く決まっていなかった。そもそも望ちゃんからの独立が僕の医学部進学の目的だ。何科に行くかなんて展望はなかった。もちろん、医学部に来た時点で志望科を決めている学生の方が珍しい、が、それでも卒業までにはある程度の方向性をきめているのが普通だ。
研修医の間、各科を回って、研修を積むうちに、何科に行きたいか決まるかもと思って研修に臨んだ。
が、結局、決まらない。
外科系は向かないことがわかった。僕はあまり器用じゃないことがわかったからだ。
精神科は、精神科の先生からストップがかかった。
「普賢先生には向いていない。患者の話を聞き過ぎる。聞くのはいいが、引っ張られちゃ駄目だ。常に、治療者としての自分の立場をキープしないと」
と言われた。
小児科はつらい子供達をみるのがつらくて、これも向いていないと思った。
それで、結局、消去法で内科を選んだ。内科の先生にはとても、本心を言えなかったけど。
もちろん、医師免許で働けるのは、臨床医だけじゃない。研究者とか行政職とかいろいろあった。
でも、それだと、勤務地を選べない。
なるべく、望ちゃんから離れたところ。それが僕の選択の基礎になっていた。
が、臨床医としての僕は、あまり、できが良いとは、言えなかった。
先輩達には、もっと要領よくやれ、とよく言われた。
「話をよく聞くのはいい。でも、それで外来に時間がかかりすぎのは良くない。待たされて疲れるのは、結局患者だ。」
とか
「話を聞くのはいい。でも、患者はたくさんいる。その調子でやっていたら、仕事が終わらない。手厚くする必要のある人は確かにいる。そういう人を手厚く見るためにも、緩急ちゃんとつけろ」
とか、よく言われた。
もちろん、独り立ちにはまだまだで、先輩医師にお世話になってばっかり。ある程度、病院に役に立っていたと言えるのは、通訳と統計学くらいだった。
隣町のリゾートで具合の悪くなった外国人観光客が担ぎ込まれてくると、僕が呼ばれた。その面では僕は重宝されていて、呼ばれると病院中どこでも行った。
英語や中国語でのパンフレット作りにも協力した。
統計の方は、勤め始めてしばらくして、どうやら、先輩方より得意らしいと、気がついた。先輩も気づいたらしい。学会発表や学術雑誌の投稿のためのデータ処理を依頼されることが多くなった。
こっちの方面は全く苦にならず、いろいろ引き受けているうちにしまいには、看護師さんの看護研究とか、他職種のデータを引き受けることになり、研修を終える頃には、役場のデータ処理まで依頼されるようになっていた。
ともかく、なんとか、一人前の内科医になろうと、頑張っていた。
望ちゃんからの連絡はこない。
これで良いんだと、言い聞かせ。自分の気持ちを見ないように蓋をして、日々の臨床に没頭するようにしていた。
望ちゃんがテロに巻き込まれたのは、僕が医者になって三年目、研修を終えて働き始めた最初の冬の出来事だった。
僕は、最初、そのテロのニュースを知らなかった。冬になって体調をくずして入院してくる患者さんが多くなって忙しく、外国でのテロのニュースなんて、病院の中で話題になりもしない
僕がそれを知ったのは父さんと母さんからの電話だ。
僕は、父さんと母さんには、ちゃんと住所も電話番号もメールアドレスも教えていた。心配させないように、連絡も時々取り合っていた。二人からは、元気でやっているか、と心配する声ばかりで、望ちゃんの近況は言ってこなかった。僕も聞かなかった。
その日も遅くなって、日付の変わる頃、病院を離れた。
家に帰ると家の電話が鳴り響いていた。誰かと思って画面をみると父さんの番号だった。
平日のこんな時間に何事だと思って慌ててでると、
「おまえ、どこにいるんだ」
「どこって、家だけど」
「何回電話してもでないから」
「何、どうかしたの、母さんに何かあったの?」
心配になって聞く
「いや、母さんじゃない、望様だ、望様からおまえに何か連絡きていないか」
「え、何、どういうこと」
「望様がテロに巻き込まれた。連絡がつかないって崑崙本家から連絡がきた。おまえ、なにか知らないか」
頭が真っ白になったのを覚えている。
うん、うん、頷きながら、
電話や、パソコンを立ち上げて、望ちゃんからの連絡がないか調べてみる。
何もなかった。
あったのは、父さんと母さんからのたくさんの着信記録のみ。
父さんからの電話は、混乱してわかりづらかったけど、どうやら、望ちゃんは、世界各国の経済界のお偉方が集まる会議に参加していたらしい。
らしい、といのも、望ちゃんはその頃お屋敷に住んでいなかった。高級マンションを借り上げて、そちらに住んでいた。僕はそんなことも知らなかった。叔母と甥という間柄で広い家とはいえ、未婚の若い男女が二人っきりは体面上良くない、と考えたらしい。社交界の考えでは、使用人は頭数じゃない。
その望ちゃんが、崑崙財閥の用事で・・・・もちろん望ちゃんは崑崙財閥で仕事を始めていた・・・・・アメリカの会議に行った。自分より年配の関連会社の社長やら重役やらを引き連れてだ。
その各国の要人が集う会場が、テロリストに襲撃された。
大混乱だった。
僕は、テレビをつけて、そのニュースを見、ネットでもトップニュースになっているそれを見たが、たいしたことはわからなかった。大混乱だって事以外。
死傷者の数も不明。もちろん、名前なんてわかりゃしない。犯人がどうなったのかもわからなかった。
ただ、この襲撃以降、望ちゃんと連絡がつかない。
慌てた崑崙の本家の人たちは、お屋敷の父さんに連絡をしてきた。何か連絡はきていないか、と。連絡手段が無くても、長年、慣れ親しんだお屋敷の電話番号くらい覚えているだろう、と考えたらしい。
父さんは、事態を聞いて激しく動揺した。いろいろ思うところがあったろうが、お屋敷の主として望ちゃんは、それにふさわしい人物だった。
お屋敷の者を、お屋敷本棟の電話と、父さんの執務用の電話に貼り付けた。が、連絡は無い。
その動揺のまま、僕に連絡してきたわけだ。おまえのところに連絡は来ていないか、と。
来てるはずがない。
だって、望ちゃんは、僕の今の電話番号も知らなければ、メールアドレスだって知らないんだから。古いそれらは、契約を破棄して、今じゃ使えない。望ちゃんから、僕への連絡のとりようなんてないって、わかっていた。
僕は、もう後先考えず、望ちゃんの電話に電話した。覚えている限りの望ちゃんのメールアドレス全てにも、何度もメールした。
僕はそれらの番号を破棄していたけど、頭ではちゃんと覚えていた。忘れられるはずがなかった。
その夜は眠れなかった。何度も起きて、電話して、メールが来ていないかと何度もチェックした。
翌朝、ひどい有様で、病院にいった。
ごめんなさい、正直に言います。全く集中できなかった。
医療事故を起こさなかったのは、ひとえに先輩医師と看護師さんと、その他病院勤務の皆様のおかげだ。
その状態が三日続いて、ついに言われた
「どうした。何かあったのか」
「すみません」
「家の人がどうかしたのか」
「・・・いえ。家の者は大丈夫です」
望ちゃんと僕は、家族でも何でも無い。そう思って、口の中が苦くなる
「・・・とにかく、もう今日は帰れ、ゆっくり休め。後はやっておくから」
そう言われて帰された。こんな人手不足の病院で、この多忙なときに帰っていいなんて、よっぽどだ。
僕は、それこそよっぽどひどかったのだろう。
昼間、家に帰って来れたので、その足で役場に向かって、パスポートを申請に行った。できあがるまでは二週間かかるって言われた。
とても待てない。
こういう海外での事故や災害の時、家族には特別に早く交付されるって言うけど、それも僕らの間柄では不可能だ。
翌日も病院を休んだ。
父さんには、何度も電話していた。何か知らせはないかと思って。毎回何の知らせも無くってため息をついた。
そして、ようやくその日の夜遅く、望ちゃんの安否がわかった。
「望様は、無事だ」
それが、父さんの第一声だった。
「向こうの病院に入院していらっしゃる。雲霄さまが確認した。おまえは、もう心配しなくていい」
「無事なんだね」
「詳しいことはわからん。もう、崑崙本家も大混乱でな。私は向こうのお屋敷の執事から教えてもらった。とにかく望様は無事だ、生きていらっしゃる」
「そう、良かった」
僕は、心の底からそう思った
「それでな」
父さんは続けた
「今回は悪かったな、騒いだりして、おまえを煩わせた。仕事大丈夫か。今日は昼間も電話してきたが、いいのか。」
「うん、大丈夫。ちゃんとやっているよ」
嘘をついた。父さんに余計な心配させてもしょうが無い。
それから、短い会話が続いて、最後に
「こっちは、大丈夫だから、おまえもそこでしっかりな。望様についている先生もきっと頑張っている。おまえはおまえでそこでしっかりやるんだぞ」
と、いわれた。
望ちゃんの容体がどうなのか、とか気になることはいろいろあったが、とりあえず、望ちゃんは生きている。その事が嬉しかった。
翌日、僕は病院に行った。その日は夜当直が予定されていた。穴をあけると、ローテーションが狂ってみんなに迷惑がかかる。
朝、行くと
「普賢先生、大丈夫?」
と、声がかかった
「すみませんでした。もう大丈夫です。」
僕は、なんとか、復帰した。
が、ともすると、診療の合間に上の空。
先輩の先生に
「何か気になることがあっても、切り替えろ。患者さんの前では医者だ。 プライベートを持ち込むな。しっかりしろ」
と、言われたりした。でも、僕を一番カバーしてくれたのもその先生で、最初に休めと言ってくれたのもその先生だった。
そんなこんなで、二週間たった。パスポートはとっくにできていたが、とりに行く暇がない。昼間しか開いていない役所での手続きは、勤務医にとって生活上の難所の一つだ。
一方、僕は、家に何度も電話をかけて、父さんに、望ちゃんの様子はどうだと聞いたが、知らない、とにかく無事だといって、取り合ってくれなかった。
望ちゃんからメールが来たのは、テロから三週間も過ぎた頃だった。
僕からのメールに返信する形で
「わし、無事じゃ。生きている。会いたい」
短いメールだったが十分だった。
「僕も会いたい」
僕も短くメールを返した。メールでなんて伝えきれない。
「明日、帰国する」
そう返事が返ってきた。
週末、僕は東京に帰った。約二年半ぶりの帰京だった。
僕は、お屋敷に着くと、使用人棟のチャイムを押した。もう、僕の家じゃないから、セキュリティーの指紋認証のリストから僕ははずされている。
大分待って、人が出てきた。
母さんだ。手が空いていたのが母さんだけだったんだろう。
僕の顔をみた母さんは
「普賢・・・帰ってきたの」
「・・・・うん」
「望様、帰って来ているわ」
「知ってる。入れて」
「いいのね」
「・・・・うん、」
母さんは、僕を中に入れてくれると、そのまま、本棟へ続く扉のセキュリティーも解除してくれた。
「・・・ありがとう、母さん」
「普賢・・・その、あのね」
「何? 母さん」
「私ね、ううん、私たちね、あなたの幸せをいつも願っている。いつもお屋敷のこと優先だったけど、あなたの事は大切に思っている」
「何? 改まって」
「ちゃんと言ったこと無かったけど、そう思っているから」
「・・・・ありがとう」
望ちゃんは、昔からの自分の部屋だと教えてくれて、母さんは台所の方に向かっていった。
望ちゃんの部屋の扉の前に来る。
緊張する。もう三年、入っていなかった。
子供の頃から、何度も入った部屋。大きくなって出入りしなくなって、再びここで過ごすようになったときは、秘密の密会部屋となったこの部屋。
この扉の向こうに望ちゃんがいる。そう思うと堪らなかった。
ノックする。
「望ちゃん、入っていい?」
中から
「鍵なら開いている、入ってくれ」
と返事があった。
部屋の中に入ると、望ちゃんは、ベッドの上に座って、パソコンで何かやっていた。そのパソコンを脇に置くところだった。
少し、痩せた。そう思った。
何か言わなきゃ、そう思ったが言えず。望ちゃんの方へふらふら歩いて行く。望ちゃんは黙ったままだ。
望ちゃんの側へ行くと、視線が合った。
「望ちゃん」
僕は、そう言うと、我知らず、望ちゃんを抱きしめていた。あの日の様に。
望ちゃんが僕を抱きしめ返してくれる。
そして、あの日言わなくて、そしてずっと言えなかった一言を口にした
「好きだよ」
望ちゃんが、ぎゅっと、さらに強く抱きしめてくれる。そして
「ようやっと、言うてくれたな」
うん、ようやく言えた。
ありがとう、ずっと待っていてくれたね。
事の最中に無理強いされれば、きっと口走っていた。でも、しなかったね。
望ちゃんが、僕の耳に囁いてくる
「ずっとそばにいてくれるな」
「うん。そばにいるよ」
「・・・わしは、やっぱり崑崙から離れられぬ。それでもいいか」
「うん」
「・・・・ああ、お主をこのまま抱きたいな」
「うん、僕も・・・・だけど、体大丈夫?」
「大丈夫、と言いたいところじゃが、本調子にはほど遠いのう」
僕は、望ちゃんから身を剥がすと聞いた。
「どこを怪我したの。どんなだったの」
「脾臓にな、弾があたって、大量出血したらしい。気が遠くなって、もう駄目だと思うたわ。一緒に周りにいた会社の者には亡くなった者もおる。」
脾臓か、それはさぞ出血したに違いない
「向こうの医者が言うには、体の血液が二度入れ替わった、と言うておったわ」
ぞっとした。本当に望ちゃんは紙一重で助かったのだ。
脾臓はもともと血液に富んだ組織だ。出血すれば大量出血間違いなしだ。あんな混乱した状況で、よく助かったものだ。輸血だって、十分な量あったかどうか。ちゃんと放射線照射した血だったのだろうか。なにか感染してなきゃいいけど。と、ここまで思って、いやいや、その輸血が無ければ望ちゃんは、今生きてここにいない。心配だけれど、それはこれから考えれば良いことだ、と思い直した。
「よく止血できたものだね」
僕がそう言うと
「最終的に脾臓をとったと言っておったわ。脾臓が無くても困らんといっていたが、本当じゃろうか」
「いろんな病気で脾臓を取る人いるよ。免疫力が下がるっていわれれているけど、すぐに大きな影響はないんじゃないかな」
手術もしたのか。あんな大混乱の中、大勢、重傷者が担ぎ込まれて、よく手術まで持ち込んでもらえたものだ。運がよかったとしか言いようがない。望ちゃんよりちょっとでも早く、そして大勢の手術患者が発生していたら、望ちゃんは後回しになって、出血多量で死んでいたに違いない。
僕は人手のない病院で働いているからわかる。患者の優先順位を決めるのは難しいって。人手がなければ、どうしようも無いことも起こる。
「傷、見せて」
僕がそう言うと、望ちゃんは寝間着をめくって、傷を見せてくれた。
「非常事態だったので、思いっきり大きく切ったと言っておった」
確かに今時みないような大きな傷だ。まだ生々しい。
「痛い?」
「まだな。だが、食べれるようになったし、歩けるようになった、退院していいと言われた」
「脾臓だけだったの? 他は大丈夫?」
「ああ、大丈夫じゃった。かなりラッキーだったと繰り返しいわれたものよ。」
それにしても、この大けがでもう退院か。アメリカは退院が早いとは聞いていたけどびっくりだ
「飛行機に乗ってもよい、と言われたので、帰ってきた。向こうの飯はまずい。病人にこってりしたチーズと肉だぞ、ありえん」
「食欲があるなら大丈夫だね」
後から聞いたのだが、望ちゃんは身元不明で担ぎ込まれたらしい。電話とか身元のわかる物は、全て吹き飛ばされたか、移動中に失われたらしい。意識不明の身元不明者として、治療を受けて、そのまま経過し、ようやく意識が戻ってきて、名前を告げて、それで身元がわかったのだ。
望ちゃんが行方不明と聞いて、雲霄さまはすぐに、アメリカに飛んでいって、望ちゃんを探し回った。病院を回り、遺体安置所を回り、その間、崑崙財閥の関係者で怪我した人や亡くなった人の家族の渡航の手配とかもして大変だったらしい。
望ちゃんの居所がわかってとんできて、看病に専心しようとしたが、望ちゃんに止められた。引き続き、他の者の手配に気を配ってくれるように頼まれた。
「わし、生きておるし、英語もしゃべれる。自分でなんとかするから、他の者を頼む」
と。 望ちゃんに頼まれた雲霄さまは、それまで以上に張り切って、いろいろと頑張った。
「それでな、伯母上にホテルに残したパソコンを取ってきて欲しいと、頼んだのじゃが持ってきてくれなんだ。治療に専念しろといわれてな。帰国が決まって、ようやくじゃ。それでようやくお主からのメールに返信できた」
携帯端末は騒ぎの中で失い、雲霄さまにねだったが、治療の邪魔とは電話もクレジットカードも与えてくれなかったらしい。
「パソコンを立ち上げて、お主からメールを見つけたときは本当に嬉しかったぞ。電話したかったが、携帯電話は無くしたままでの。今もまだ手続きが済んでいなくて、持っておらん。帰ってきて屋敷の電話を使おうかと思って、お主に電話番号を教えろと、今、メールしていたところだ」
そんな話をしていると、望ちゃんの部屋の電話が鳴った。
ベットからは遠く、望ちゃんを歩かせたくなかったし、僕が出るわけにも行かない。仕方ないので、僕は電話機を望ちゃんのところまで持って行く。
「ああ、うん、そうか。わかった、そうだな、一緒に部屋まで来てくれ」
とかなんとか言っていた。
「誰か来るの? 僕、外、出ているね」
「いや、まて、お主にこそ会わせたいのじゃ。」
程なくして、若い男女二人連れがやってきた。女の人の方は見たことがある。邑姜様だ。望ちゃんがお屋敷に連れてきた日に会って以来、お会いすることはなかった。あの時よりちょっと大人っぽくなっていたが、望ちゃんに似た面差しでわかった。
もう一人の男の人は知らない。年のころは僕たちとおなじくらいだろうか。
望ちゃんは、僕に紹介し始めた
「姫発に邑姜だ。で、こっちが普賢。」
ああ、なるほど、この人が姫発さんかと思った。中学の頃から、望ちゃんの話題に何度も出てきた人だ。もっとやんちゃな感じを想像していたが、思っていたより落ち着きがある。
なんと、言ったものか、と思っていると、邑姜様の方から話しかけてきた
「普賢兄様ですね。こんにちは、私たち一度お会いしているのですが、覚えていますか?」
「え、あ、はい」
邑姜様が僕を覚えていたことの方が驚きだ。会ったのは、邑姜様がお屋敷にいらしたときに一回きり。それも使用人に混じっての紹介だった。僕は、その後、本棟に入らなかったので、邑姜様に会ったのは、その一回きりなのだ。
「普賢兄様とは、きちんとお話ししたかったんです。」
「え・・・・その、・・・・・・・」
その呼び方は?
見透かしたように邑姜様が話す。
「だって、望兄様の大事な方でしょう。だから普賢兄様です。それに私、老子の生徒でもあるんです。兄弟子だから、やっぱり兄様です。」
「えっと、それは」
僕は望ちゃんの方を見た。
「二人はな、来月、正式に婚約する。姫発が婿養子として、崑崙に入ってくれる予定じゃ。」
「おう、そのつもりよ。一緒に崑崙を盛り上げていこうな。兄弟」
姫発さんは明るく言った。
「えっと、でも、いいんですか? 姫発様は、政治家のお家ですよね。お家のほうはいいんですか?」
「大丈夫、大丈夫、家の方は兄貴がいる。それに下の弟が政治に興味があって、兄貴を支えてくれる。おれがいなくても大丈夫。兄貴は政治から、俺は経済から、この国を良くしていく心づもりよ」
あくまで明るい。そして
「やっと会えたな。あんたが太公望のプリンちゃんか」
と付け加えながら、握手を求めてくる。
太公望ってのは、望ちゃんのあだ名らしいってことは何となくわかる。でもプリンちゃんって何?
「あの、邑姜様はいいんですか? 崑崙財閥とは距離をおきたいのかと、思っていました。」
「そのつもりでした。でも、老子との授業や望兄様と話すことで、視野が広がりました。崑崙の力は、役に立つって。私は、姫発さんと二人、この国を、いいえ世界をもっと良くしていきたい。そのために崑崙の力を利用するつもりです。」
と、こちらも明るい。そして
「普賢兄様も力を貸して下さいますよね」
「え、僕? 僕が何を」
「望兄様を支えて下されば良いんです。今日いらして下さったってことは、その気になったって事ですよね」
「えっと」
僕は困って望ちゃんを見る。望ちゃんはにやにやしながら
「おう、ようやっと、言ってもらえた。」
そう言いながら、僕の腰に手を回そうとするので、それを振り払った。好きって認めることと、人前でそういうことをするのは全く別の話だ。
「なんじゃ、駄目か」
駄目に決まっているでしょう。目で言う。
「あはは、やっぱり尻にひかれているな。あーあ、でも、これで太公望の恋愛相談も終わりか」
「望兄様、私たち相手に、あーでもない、こーでもない、と普賢兄様の事で、いろいろ煩かったんですよ。だから、どんな人なのかなぁと思って、ずっとお会いしたかったんです。この屋敷に最初に来たときも『うちに来るのに当たって、一つ条件がある。うちの屋敷には、わしの想い人がおる。けっして手を出すでないぞ』って言われていて。私、最初意味がわからなかったんですけど、お屋敷にきてすぐわかりました。この人だって。」
「だから、学生時代も俺たちを、決して家に呼んでくれなかったよな」
何を二人相手に言っていたのかと思って、顔が自然と赤くなってくる。
「そうそう、望兄様、今日、宝飾屋さんが来ました。私たちの分の婚約指輪を持ってきてくれたんです。それで、望兄様がうちにいるって、聞いて、望兄様の分はどうしようって言うので、私が預かりました。」
そう言って、紙袋を渡してくる。
「サイズが合わないとかあったら、直しますって言ってました」
「それじゃ、俺たちはこれで消えるぜ。太公望、それ使って、ばっちり決めろよ」
そういいながら、二人は出て行った。
残された僕は、やや、呆然。
「望ちゃん・・・・二人に何言ったの」
「何って、お主を振り向かせるのには、どうしたらいいのか、と、あれや、これやと」
それだけ、望ちゃんがあの二人を信頼しているってことでもある。が、僕の聞きたいことはそれじゃない
「・・・どんな計略を使って、二人をその気にさせたのかってこと。崑崙に入ってくれるなんて・・・」
「いや、たいした計略は使っておらん。確かにあの二人、気が合うと思って引き合わせた。後のことは、わしのあずかり知らぬこと。とんとん拍子に話が進んでの」
本当だろうか。疑わしい。
僕がじっと見ていると
「まぁ、その話は置いといて、こっちじゃ」
そう言いながら、紙袋の中を探り始める。
「む、こっちかな」
とか言いながら、小さな箱二つを見比べている。
箱を空けると出てきたのは、さらにきれいなケース。
僕でもわかる。これは
「指輪じゃ。はめてくれるか。」
「・・・・」
「本当はな、外堀を全部埋めてから、お主のもとに行くつもりだった。邑姜が結婚して、できれば子供も生まれて、それからなら、お主がうんと言ってくれるのではないか、と思ってな。」
僕は黙って、望ちゃんの話を聞いている。
「邑姜達が、指輪を作るというので、わしも一緒に注文した。この指輪をお主がはめてくれるところを想像したら、もう少し頑張れるのではないか、と思ってな。」
そう言いながら、僕の手を取ってくる。
僕は逆らわなかった。
「だが、もう待つのは、やめた。わし、死にかけた。お主が明日死ぬかもしれん。もう待たない」
うん、そうだね。僕もわかった。望ちゃんのいない世界なんて考えられない。同じ心配をするにしても近くでしたい。
望ちゃんが、箱から指輪を取り出してはめてくれる。
「ぴったりだな」
「よくわかったね、サイズ」
「前に計った。お主が気をやって寝ているところを見計らって」
望ちゃんは、いつも先に寝ちゃっていたと思っていたけど、そんな事していたんだ。
望ちゃんは、もう一個の指輪を取り出すと
「わしにはめてくれ」
僕は望ちゃんの意志に従って、それを望ちゃんの指に通す。
手を絡め、それから、キスをした。
僕は初めて、自分から、望ちゃんの口の中へ舌を差し入れた。望ちゃんが優しく受け入れてくれる。
長い長いキスになった。