就職先は、地方都市の総合病院にした。
そこの研修医として、僕は働き始めた。
外国で、研修することも考えたけど、僕には先立つお金が無い。いろいろな条件を考えると、日本で研修するしかない、と結論になった。
働くのを決めた地方都市は、最寄りの空港まで3時間。なるべく田舎で、東京から遠く、望ちゃんがほいほいと来れないようなところにした。
家を出るにあたって、父さんは
「立派なお医者さんになるんだぞ。頑張れよ。将来は父さんの主治医になってくれ」
と明るく言って送り出してくれた。
母さんはそれよりもっと、複雑そうな表情だった。
「とにかく体に気をつけて。教えた料理は覚えているわね。ちゃんと食べるのよ。コンビニばっかりじゃ駄目よ。それから、洗濯の仕方覚えたわね。洗濯機がやってくれるからね。着たきり雀じゃだめよ。それから・・・」
と、とにかく心配してくれていた。そして最後に、大分躊躇った後に言った
「・・・・・望様にはちゃんと言ったの?」
「望様?・・・・何も言っていないよ。望様には関係ない。使用人の息子がどこに就職しても望様には関係ないことだよ。言う必要ないでしょ」
「・・・・いいの? それで」
「いいも何も、関係ないことだよ」
そうして、僕は、慣れ親しんだお屋敷を離れた。子供の頃から住み慣れた使用人棟にあった自分の部屋は引き払った。
持って行く荷物は多くなかった。医学書と服が何枚かだけだ。病院に行けば白衣だから、たいして着る物は必要じゃ無い。
もともと僕の私物はそんなに多くない。遊ぶときはたいてい望ちゃんと一緒だったから、おもちゃは、望ちゃんのもので自分の物はいらなかった。本だってそうだ。僕は読書が大好きだったけど、読みたい本は、望ちゃんが自分も読むと言って、望ちゃんの本と一緒に買ってくれて、本棟の図書館に収められていた。
それと、望ちゃんがくれた例のアレは、持って行くことにした。アレは使うつもりは無かったけど、捨てるのに困ったってのもあるし、なにより望ちゃんがくれたほとんど唯一のものだったからだ。望ちゃんは、僕に「物」をくれることはほとんどなかった。僕がお返しできないってわかっていたからだと思う。
でも、凄く大きなモノをくれた。勉強する機会だ。ありがとうね、望ちゃん。おかげで生きていける。望ちゃんのもとを離れられる。
就職してからも、望ちゃんからはメールが届いていた。どこに就職したんだとか、元気か、とか聞いてきた。僕は、最初に忙しい、ってメールして以降、望ちゃんのメールを無視した。
そして、メールアドレスも、電話番号も変更して、それを教えなかった。
就職というか研修先の病院は、実際、忙しかった。地域に総合病院はそこだけ、地域最後の砦、という感じで、軽い症例から重い症例までそこに全て集中していた。
僕は、一応医者になったわけだけど、全く役立たずだった。座学と実際とでは天と地ほどの差がある。まして、地方の病院で、教科書で習ったような検査が全てできるわけでも無く、治療もできる治療には、限りがあった。手持ちの乏しい武器で戦う前線の兵士、先輩医師の一人はそう表現していた。
はっきり言って、僕は足手まといで、僕に教えながら診療するなんて、全くの慈善事業。自分でやった方が早いのに、みんな親切に教えてくれた。
看護師さん、始め、技師さんや薬剤師さん、みんな親切だった。
僕はしばらくぶりの研修医だったらしく、珍しいからか、病院職員全員が僕を覚えてくれているようだった。
というか、町の人みんなが僕をわかっているようだった。患者さんも、
「先生、東京から来たんだってね。ここは田舎で大変だろう」
とか
「先生、慣れたかい。頑張ってな」
とか、励ましてくれる人が多かった。
とにかく、そんな人たちの役に少しでも立とうと、奮闘する日々だった。
望ちゃんが現れたのは、僕が研修を始めて、半年経った頃だった。
土曜日当直の後の日曜日だった。
僕は土曜の夜、病院に泊まって、当直していた。一人で任され始めた頃だった。危ないのが来たらすぐに呼べって、どの科の先生も言ってくれていた。この場合の「危ない」、は命に関わる重大病状の人って意味だ。とにかくその見極めだけははずすな、って言われていた。
ただ、そうは言ってくれていたが、みんな疲労困憊しているのがわかっていたから、なんとか僕のところで持ちこたえたい、と思って頑張っている頃だった。
その日の僕は土曜の夜の当直で、次の日の日曜日は休めるので、比較的楽な当直だった。
通常は、平日働いて、そのまま当直、その翌日も通常勤務なんてのを普通にやっていて、36時間寝ていない、と呻きながら頑張っている人もいた。医療安全上、問題があるのはわかっているけど、とにかく患者が目の前にいるんだからどうしようも無い、ってみんな言っていた。
土曜日の明け方、入院が必要な患者さんが運ばれてきて、先輩医師を応援で呼び、その人を手伝いながら、いろいろ処置していたら、日曜日の昼になってしまった。
「お疲れ様」
みんなにそう声をかけられ、こっちも
「お疲れ様です。お先に失礼します。」
と返事しながら、病院を後にした。
疲れた、と思ったが、入院した患者さんの容体が安定して、一安心だったので、充実感に満ちてもいた。
そうして、自分のアパートに帰ってきたところにいたのが、望ちゃんだった。
アパートの僕の部屋の前で座り込んでいる。このアパートは、医師住宅として病院が借り上げているアパートで、両隣も上下も斜めも、全員医師とその家族だった。
よく、不審者として通報されなかったものだと思う。
帰ってきた僕の気配を感じたのだろう。望ちゃんが顔を上げる。そして、暗い顔で言った。
「話がある」
「僕はない」
望ちゃんが立ち上がった。
「話がある。家の中に入れてくれ」
「駄目」
家の中に入れちゃ駄目だ。結局、望ちゃんに押し流される。
「どうして、こんな町にいる」
「勉強になるから」
「違う、なぜ、わしの元を離れた」
こんなところで押し問答していたら、病院の先生に見られる。男二人、こんなところで押し問答は、どうみても変だろう。
「帰って、望ちゃん」
中国語に切り替えて言った。
「一緒に帰ってくれ」
望ちゃんは日本語のままだ。
「何、言っているの。僕は研修中。」
「じゃあ、研修が終わったら帰ってきてくれるか」
「・・・・・」
「とにかく話をさせてくれ」
帰ってくれる気配は無い。僕は、折れた。だが、部屋の中に入ったらお終いだってわかっている。
「どこか、お店に行こう」
この時間なら、商店街の喫茶店が一軒開いているはずだ。喫茶店でなら、話し込んでいても不思議じゃ無い。人目のあるところでは、さすがに、望ちゃんも何かしては来ないだろう。
喫茶店に入って、コーヒーを頼む。僕の思惑とは違って、店の中はそこそこ混んでいた。でも、知った顔はいない。
僕は望ちゃんに言った。
「何しに来たの?」
フランス語だった。僕たちは、英語でも中国語でも会話に困らない。だけど、僕はここでフランス語を選んだ。英語や中国語ならわかる人もいるかもしれない。さすがにフランス語まで話す人はこの町にはいないだろうと思った。
それに、望ちゃんはフランス語も得意だが、僕はそこまでじゃない。その分、考えながらしゃべるから感情的にならなくていい。そう思って、フランス語を選んだ。それでも声を潜めて話し始めた。
望ちゃんは、少し考えてから
「決まっておろう。お主に会いに来た」
とフランス語で返してきた。
「・・・どうして、ここがわかったの」
「探偵を使った。研修ができる病院で、田舎で、と条件を絞って片端から電話させた」
電話したからって、簡単に取り次ぐほど、病院の受付も間抜けじゃ無いはずなのに
「電話して、『普賢先生につないで下さい』って言わせた。お主が勤めていなければ、『そんな先生いません』で終わりだ。『普賢先生に何のご用ですか?』って病院に行き着くまで、根気よく電話をかけさせた」
僕は低く呻いた。
「その探偵さん、信用できるの」
「大丈夫。わしが直に会って決めた」
なら、大丈夫だろう。
そして、思った。僕の両親は、僕の行き先を教えなかったのだ、と。
そんな僕の思いを見抜いたように
「お主の親は、教えてくれなんだ」
と言った。首を覚悟で逆らったに違いない。
「大丈夫じゃ、そんなことで解雇したりせぬ。」
望ちゃんが父さん達を首にしたら、僕のところに来てもらうつもりだった。節約すれば、三人なんとかやっていける。
でも、望ちゃんの返事を聞いて、僕は正直ほっとした。あの家以外にいる父さんを想像できない。できれば、いさせてあげて欲しい。
「それで、どうして、わしの元を離れた」
「どうしてって、一緒にいられるわけないでしょ」
今日こそはっきりさせなきゃ。就職もした。望ちゃんとはもう別々の道を歩むのだ。
「何故」
と望ちゃんは詰め寄ってくる。望ちゃんも僕の決意を感じたに違いない。これまでは、追求をやめてくれていたところに踏み込んでくる。
「何故って、わかっていることでしょ。望ちゃん、自分の立場、わかっているよね」
「崑崙財閥の跡取り、それが、わしじゃ。だが、だからといって、お主と一緒になっていかん、ということもあるまい」
「いいわけないでしょ。僕、男だよ。」
「そんなこと最初からわかっておる」
「だったら、無理だってこともわかっているでしょ」
「なぜ、無理だと決めつける」
「ちゃんと、お嫁さんもらって、子供を持って、それがみんなの望むことだよ」
「だから、何故、そもそも皆の望み通りにせぬといかんのじゃ。だいたい、今時世襲なんて流行らん」
「流行るも何も、跡取りが決まっていなかったら、崑崙財閥が大混乱だよ。日本経済が傾くよ。たくさんの人の人生が狂うよ」
「そうはさせぬ。ちゃんと手配する。だいたいだ、公明伯父上も雲霄伯母上たちも勝手にしておる。なんでわしだけが跡継ぎをもうけなきゃならんのだ」
「そうは言ったって、もう望ちゃんしかいないんだから」
「邑姜がいる」
「邑姜様に押しつけちゃ駄目。邑姜様にその気はないんでしょ」
「・・・・わしだって、幸せになりたい」
「幸せになって。」
「・・・お主がいなければ、無理だ」
「世界は広いんだよ。絶対望ちゃんに合うひとがいるはずだよ」
「いるかもしれん。だが、お主がいるのに、何故そんな者を探す必要がある・・・だいたいこれまでのところわしの人生に、お主以上に安心させてくれる者はおらなんだ。わし、お主がいい。」
「・・・・駄目・・・・だよ」
望ちゃんは押し黙った。
しばらくして、暗い目のまま言った台詞は
「お主、恋人ができたか」
「・・・・」
そうだ、と言えれば良かったが望ちゃんに嘘は通用しない。僕は黙りを決め込む
「じゃあ、あれ、使っておるか?」
「あれ?・・・・・・・・・使っていない」
何度も体が疼いたが、我慢した。だって、望ちゃんを思いだしてしまうから。
望ちゃんは再び黙り込む。
その隙に僕はコーヒーを流し込む。いつの間にか声が大きくなっていたらしい。店中の人が、耳をそばだてて僕らの会話を聞いているのがわかる。見かけは日本人の若い男二人が、なにやらわからん言語でやりあっている。注目を浴びるには十分だ。
僕は、店の中を見渡した。携帯端末を広げている人はいない。録画や録音はされていないようだ。録画や録音されて、公開されたら、フランス語のわかる人が絶対いる、一発アウトだ。特に録画されて、望ちゃんが誰かわかったら大変なことになる。僕なんかどうでも良いけど、望ちゃんは駄目だ。
そもそも喫茶店なんか選ばなきゃ良かった。でも、人目の無いところだったら望ちゃんが何するかわからない。その何かに僕はきっと流される。
「望ちゃん、帰って」
声を潜めて、囁くように言う。
「・・・・・・そばにいると言うた」
あの日の約束、遠い約束だ
「・・・ずっと、とは言わなかったよね。・・・・・僕を自由にして」
そこへ、病院からの呼び出し電話がなった。
「はい、普賢です。今行きます」
僕は日本語で答えた。
「行くね、望ちゃん、元気でね」
フランス語で囁いて、急いで席を立つ。コーヒー代を置いていこうと財布を取り出そうとしたところで、ぐっと腕を捕まれた。
あっと思うまもなく、バランスを崩して、望ちゃんにキスされた。舌がわって入って来ようとする。
僕は、渾身の力を振り絞って、望ちゃんを突き飛ばした。
僕は望ちゃんを睨むが、望ちゃんはニヤリと笑みを返してきた。
いたたまれず、喫茶店を飛び出す。
人前であんなことするなんて。これまで決してなかった。油断していた。
あの中に望ちゃんの顔がわかる人はいないはずだ。望ちゃんはまだ、公のメディアとかには出ていない。あの喫茶店に防犯カメラは無かった。だから、大丈夫。そう思いながら、走った。
望ちゃんは追いかけてこなかった。
望ちゃんは、確信犯でキスをしてきたんだと、すぐにわかった。
僕は全くもてなくなった。
それまで、職場でもてていたという自覚はまるで無かった。
だが、望ちゃんに喫茶店でキスされた週から、僕は全くもてなくなった。
それまで、廊下ですれ違ったとき、今度飲みにいきましょうとか、ずいぶん言われていたんだけど、それがぴたりと無くなった。ご飯作りに行きましょうか、とも言われていたんだけど、それも止んだ。
そういう誘いが無くなって、どうやら、自分はデートのお誘いを受けていたと気づいた。
望ちゃんが、彼女たちを牽制するために、わざと、キスとしたと思いいたった。
そんな必要なかったのに。
そもそも、そんなお誘いは断っていた。臨床になじむために、日々勉強だったし、疲れていたので、帰ってひたすら寝たかった。ご飯は母さん仕込みの料理の腕前のおかげで困っていなかったしね。
女の人にはもてなくなったけど、男の人からは、お誘いを何回か受けた。もちろん、全部お断りさせてもらった。みんな控えめで、望ちゃんのように押しが強い人はいなくて、僕が断るとみんなすぐに引っ込んだ。
たぶん、喫茶店には、僕は向こうを知らないけど、向こうは僕を知っているって人がいたに違いない。だいたい大きくない町だしね。
みんなが知っていると、僕が知ったのは、ある日の夜だった。当直していると、ベテランの看護主任さんが話しかけてきた。
「普賢先生、これで急患は一区切りです。しばらく来ないと思います。お茶入れるから、休憩にしませんか」
「ありがとうございます」
若い女性看護師さんからのお誘いは、ぴたっと止んだが、代わりに、といっていいいのか、別な層に猛烈に親切にされ始めたのだ。
「大分慣れましたか?」
お茶菓子を勧めてくれながら、主任さんが聞いてくる。もう一人の当直夜勤の看護師さんは、院内の見回りに出かけていた。
「大分慣れました。でも、まだまだですね。あ、近場の地名と場所はだいたいわかるようになりました」
病院のホームページだけ見て決めた自分は、周りの地理が全くわかっていなかった。患者さんがどこからどのくらいの距離を通院してくるのかとか、救急車で運ばれて来る人が後何分でくるのか、とかわかるために、地理は必須だったのだ。来てわかったことは、半農半漁のこの町は、隣町がリゾート開発に成功して、外国人の観光客が大量に来て、いろいろと激変中ということだった。
「それにしても、先生もいろいろあったんですね」
しばらく、お話ししていた後、主任はそう言ってきた。その日は妙に急患が少なく落ち着いた夜だった。
「えーと」
僕が、口ごもっていると
「先生みたいな人が、うちの病院で研修なんて変だと思ったんですよ。先生みたいな学校出た人が、こんな田舎にくるなんて」
「いえいえ、僕、あまりお役に立てて無くてすみません」
あまり、どころか、全然だ。
「先生は、頑張っていますよ。だけど、T大でしょ。最初は心配していたんですよ。どんな偉そうな頭でっかちの人が来るんだろうって、みんな心配していたんです。」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。でも、来てみたら、先生、謙虚で控えめで、ここに慣れようと頑張ってくれているでしょ。いやぁ、いい人が来たってね。みんな言ってます。」
「ありがとうございます」
「でね、いよいよ、謎だって、みんなで言っていたんです。なんだって、うちに来たんだって」
「地域医療が勉強したかったので」
と、お決まりの台詞を言った。地域医療というと、言葉はいいが、平たく言うと僻地医療だ。
「うーん、まぁ、そういうことにしときますか。」
「はぁ」
「もうね、私たち主任クラス以上は、別な心配もしていたんです。若い子達、目の色変えて、先生にせまったでしょう。」
「いえ、その、あの」
「凄かったでしょう。肩書きだけでもものすごいのに、先生、爽やか系のいい男だし、私だって、あの子たちくらい若ければ、頑張っていましたよ、きっと」
「・・・・」
「でも、先生、誰にも目をくれないでしょ。こりゃ、真面目な人が来たなって、私たち安心したんです。」
僕は、返事に困って相づちを打つ一方だ。
「前に研修医が来たときは、大変だったんです。もう、うちの若いきれいどころを食い荒らしていって。二股、三股なんてものじゃありませんでした。人妻にまで手を出すから、離婚騒ぎもあったし。職場の雰囲気も悪くなるし、その先生が辞めたときには大量退職しちゃってとにかく大変だったんです。」
「はぁ、そんなことが」
「だけど、先生、そんなこと無いでしょう。まぁ真面目なんだろう。けど、それにしたって、全く目もくれないってどうだろうって、噂していたんです。そういうことだったんですね」
えーっと、とそういうことって。つまり、そういうことか。みんな知っているんだ。
「良いんですよ。先生。わかっていますから。」
にっこり微笑まれて、返す言葉が無い。
そこへ、電話が鳴って、次の急患が来ました、って知らせがあって、会話は中断となった。
そんなこともあったけれど、基本的に病院での生活は変わらなかった。特に表立って咎められることも無く、僕は研修医生活を続けた。
望ちゃんは、もう何も言ってこなかったし、再び現れることも無かった。